「どこがつらいですか」と伺う前に、みなさん、もう手で押さえています。腰に手を当てて入ってくる方。みぞおちを押さえたまま話しはじめる方。こめかみに指を添えている方。
誰に教わったわけでもないのに、手は、痛む場所を知っています。
子どものころを思い出してみてください。お腹が痛い夜、家の人の手のひらがお腹に乗ると、痛みそのものは消えていないのに、なぜか少しだけ楽になった。あの、手の重みと温かさです。
今日は、この何気ない動作に残っている「手当て」という言葉の話と、今夜から布団の中でできる、いちばん小さなケアの話をします。道具はいりません。自分の手だけです。
「手当て」——言葉の中に残った、いちばん古い治療
けがや病気の処置を、日本語は「手当て」と呼びます。語源には諸説ありますが、字面のとおり、痛むところに手を当てることが癒やしの原点だった——そう思わせる呼び名です。
ところで、この言葉は治療の外にも広がっています。給与の手当て、生活の手当て。まるで別の意味のようでいて、芯はひとつ——足りないところに、何かをあてがうこと。体の痛みも、暮らしの不足も、日本語は同じ動作で受け止めてきました。
東洋医学の世界でも、手は最初の道具でした。古い経典『黄帝内経』には、鍼や灸と並んで、按蹻 [1] という手技の治療が記されています。
わたしの国家資格のひとつは「あん摩マッサージ指圧師」といいますが、この「按(あん)」は押さえる、「摩(ま)」はなでるという意味。資格の名前そのものが、手の動きふたつでできています。鍼は鍼を、灸はもぐさを必要としますが、手だけは、いつでも誰の体にもついている。いちばん古くて、いちばん身近な治療器です。
体には「心地よさ専用」の神経がある
面白いことに、近年の研究は、この古い知恵に別の側面から追いついてきました。
皮膚には、ゆっくりとした軽い触れ方にだけ反応して、心地よさを伝える神経(C触覚線維 [2] )があると考えられています。
英国の研究では、1秒に5cmほどのゆっくりした速さでなでられたとき、人はもっとも心地よく感じたと報告されました。速すぎても、遅すぎてもいけない。あのお腹をさする手の速さは、ちょうどこのあたりです。
つまり、痛いところに思わず手が行くのは、気休めではありません。体が、自分で自分の手当てを始めている姿です。むしろ、言葉より早い。「痛い」と口にするより先に、手はもう現場に着いています。
施術でも、これは毎日感じることです。鍼を打つ前に、まず手のひらを背中に置く。それだけで、ふっと息が深くなる方が少なくありません。道具が仕事を始める前に、手が先にひとつ、仕事を済ませているのです。
押さえる、なでるという二千年前からの手技と、心地よさの神経をめぐる最新の研究。出発点はずいぶん離れているのに、ふたつの道は「手のひらの下」という同じ一点で落ち合っています。
今夜は、手を置くだけでいい
そしてこの手当てが特に効くのが、夜です。日中は、荷物を持ち、キーを打ち、手はずっと外の用事に出払っています。夜、布団の中は、その手が一日で初めて自分の体に帰ってくる時間です。
横になって、目を閉じたら、手のひらをお腹か胸に、そっと置く。それだけです。さすらなくていいし、押さなくていい。眠ろうとがんばる必要もありません。
場所は、お腹でも胸でも、しっくりくるほうで構いません。手が冷たい日は、両手を少しこすり合わせて温めてから。パジャマの上からで大丈夫です。
東洋医学では、手のひらの中央を労宮(ろうきゅう)というツボの名で呼びます。働く、の字に、宮殿の宮。名前の由来には諸説ありますが、一日じゅう外で働いた宮を、夜は自分の体の上で休ませる——わたしはそんなふうに読んでいます。
置いた手の重みと、じんわり移っていく温かさ。呼吸のたびに、お腹の上で手が小さく持ち上がって、下りる。それをただ感じているうちに、体は「手当てを受けている」ときの静けさを思い出していきます。
手技を仕事にしていて思うのは、触れることの半分は「そこにいますよ」の合図だということ。自分の手でも、その合図はちゃんと届きます。ひとりの夜でも、体は置き去りではないのです。
なお、強い痛みや長く続く痛みは、手当てで様子を見ずに、早めに医療機関へご相談くださいね。
手の温かさを借りるケアとしては、寝る前3分でできる!深い眠りに誘う『首元の温めケア』と安眠のツボもあわせてどうぞ。今夜、布団の中で手を置く場所がひとつ決まっていれば、それでもうじゅうぶんです。


