【めぐりの手帖】水始涸——実りは、水を抜いてから

めぐりの手帖

水始涸——みず、はじめてかるる。秋分の末候です。涸れるといっても、日照りの話ではありません。田んぼの水を人の手で抜いて、稲刈りに備える頃。落とし水と呼ばれる、秋の仕事です。

春からずっと、田には水が張られてきました。水があるから、稲は育つ。それなのに、いちばん最後の仕上げは、その水を抜くことなのです。地面を乾かし、固めて、実りを仕上げて、刈り入れの人が入れるようにする。

注ぎ続けるだけでは、収穫にたどり着かない。引くことまで含めて、育てること。田んぼは毎年、それを黙って実演しています。

人の一日にも、落とし水があっていいと思うのです。昼のあいだ、わたしたちは注がれ続けています。情報、光、音、頼まれごと。どれも育ちの水ではあるけれど、夜まで張りっぱなしでは、実りの仕上げが始まりません。

施術室でも、終わりの合図は「引く」です。押すことよりも、置いていた手をそっと離す瞬間に、体がふっと変わることがあります。与えられているあいだではなく、引かれたあとに、体は自分の仕事を始めるようなのです。

眠りは、一日の落とし水なのだと思います。入ってくるものを止めて、干上がらせるのではなく、静める。昼に注がれたものは、夜のあいだに、実りへ変わっていきます。

実るほど頭を垂れる稲穂かな、といいます。頭が下がるのは、中身が入ったから。よく休んだ朝、ふっと肩の力が抜けているのも、たぶん同じ理屈です。

今夜のわたしの落とし水は、考えごとの蛇口です。あなたの田んぼには、どの水が張りっぱなしでしょうか。

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