玄鳥去——つばめ、さる。白露 [1] の末候です。玄鳥はツバメの古い呼び名。春に軒先へやってきたあの鳥が、南の国へ帰っていく頃です。
四月には、玄鳥至という候がありました。来る日に名前があり、去る日にも名前がある。暦はツバメの到着だけでなく、出発にも、ちゃんと席を用意しています。
九月の夕方、ふと電線が空いていることに気づきます。あの鋭い声も、軒下の忙しい出入りも、いつのまにか、ない。来たときはあんなに騒がしかったのに、去るときは、こんなに静かです。
渡りの旅は、数千キロ。あの小さな体が、海を越えていきます。見送る側にできるのは、空いた電線を見上げて、無事を思うことくらいです。
不在は、目立ちません。来たことはその日のうちに気づくのに、いなくなったことは、いつも、あとから気づく。
体の変化も、似ています。「そういえば最近、肩のあれがありません」——施術室でいちばんうれしい報告は、たいていこの形でやってきます。痛みが来た日は覚えているのに、去った日は、誰も覚えていない。
良くなるというのは、何かが派手に増えることではなくて、あって当たり前だったものが、静かにいなくなることなのだと思います。回復は到着ではなく、出発に似ている。だから気づかれないし、気づかれないくらいで、ちょうどいい。
ツバメは、さよならを言いません。ある朝、いない。それでいて春には、当たり前の顔でまた戻ってくる。不調の去り方も、それくらい静かでいいし、見送りそこねても、誰も困らないのです。


